鳥取旅行の2日目をレポートします。
1日目は前回の記事をご覧くださいませ。
-
鳥取民藝の旅 ‐鳥取民藝美術館→たくみ工芸店→たくみ割烹店ですすぎ鍋とハヤシライス編‐
夫と1歳3ヶ月の娘と共に、鳥取を旅してきました! 今回はその様子をレポートしていきます。 今年1月に民藝の100年展を見てから鳥取民藝熱が高まり、当初は3月に旅行する予定でしたがフライトが欠航となり4 ...
続きを見る
2日目の朝、ホテルの朝食を食べて8時過ぎにチェックアウトをしました。向かうのは2つの窯元、因州中井窯と牛ノ戸焼窯です。事前に電話で訪問してもいいか聞いてから行きました。基本的に窯元見学の際はアポが必要です。
途中に、「とうふちくわの里 ちむら」に寄って鳥取のソウルフード「豆腐竹輪」を買ってみました。
豆腐竹輪の歴史は江戸時代にさかのぼります。鳥取藩では魚が贅沢な食べ物だったので、庶民は魚の代わりに豆腐を食べるようにと作られました。木綿豆腐と白身魚が7:3の割合で作られています。
冷蔵保存で4日ほどしか保たないので、移動中の車内で食べてみました。
購入したのは一番人気の「豆腐竹輪・蒸し」です。一口目はちくわ。しばらくすると豆腐の風味がして、またちくわに戻りました! 不思議な食べ物ですが、煮物やおでんにしても美味しそうです。お土産に沢山購入したかったのですが、冷蔵保管ができないので諦めました。ネットでも購入できるので、また色んな味(ネギやショウガ、和牛、カレーなど)を試してみたいです♪
途中寄り道をしましたが、ホテルから車で30分ほどで因州中井窯に到着しました。近くに曳田川(ひけたがわ)が流れていて、とてものどかなところです。
裏の駐車場から表の入口へ川沿いに歩くと、薪や粘土が見えてきました。
因州中井窯は、1945(昭和20)年に初代・坂本俊郎氏が現在地に登り窯を築窯。1952(昭和27)年に医師で民藝運動家の吉田璋也氏から牛ノ戸焼脇窯の名を受け新作民藝の道に入られました。さらに、1962(昭和37)年に吉田璋也氏より「牛ノ戸焼中井窯」の名を受けます。
現在は三代目・坂本章さんが窯を受け継ぎ、手仕事フォーラム発起人の故・久野恵一氏や柳宗悦(思想家で民藝運動の主唱者)の長男でプロダクトデザイナーの柳宗理氏の指導を受け、新しいデザインを生み出してきました。中井窯の代名詞である緑釉と黒釉で染め分けられたタイルが表札になっています。
さらに進んで行くと、登り窯も見えてきました! 窯元は作る人と、作られたモノ、作られる環境が同時に見れるので楽しいです。少しずつ全貌が見えてきてワクワクします♪
坂を下りギャラリーの方へ歩いていくと、小さな女の子が秤の乗った長椅子に座って出迎えてくれました。それにしてもゴミ一つなく、とっても綺麗に掃除されています。
女の子は坂本章氏のお孫さんでしょうか。お父様がすぐに現れたので、ご挨拶してギャラリーにお邪魔しました。
天井が高く、明るい部屋に沢山の器が並んでいます。
染分皿がズラリ。
民藝館で展示されていた染分皿より、緑色の発色が明るい気がします。民藝館の方が言うには、中井窯が明るい緑色で牛ノ戸焼窯は色味を抑えた様な緑色。2つの窯元で色が違うのだと教えてくれました。
コーヒーカップが可愛かったので、形の違う物をそれぞれ一つずつ購入しました。白×黒のカラーもありましたが、やはり緑×黒をチョイスしてみました。ギャラリーで対応してくださった方が青×黒と伝票に記入していたので、「みどり」ではなく「あお」と呼んでいるんだなぁと、ふと思いました。コーヒーカップの在庫がなかったので、予約購入する事にしました。出来上がるのは夏頃。手元に届くのがとっても楽しみです♪
次は車で3分程の所にある、牛ノ戸焼窯へ移動しましょう。敷地内に車を停めると、若そうなお兄さんがお出迎えしてくれました。
ギャラリーかな? と思い立ち止まっていたら、こちらはお家の玄関でした。涼しげな染分皿の暖簾が可愛いです。「こっちですよ。」と教えてくれたお兄さんについていくと、家の隣りに建つ大きな平屋の一角に展示スペースがありました。これまで訪れた窯元で、こんなに大きな工房は初めてでした。
吉田璋也は鳥取市内の陶器屋さんで牛ノ戸焼の五郎八茶碗を見て、窯元に飛んで来たそうです。さかのぼること江戸時代末期。石見焼きの産地(今の島根県江津市)から60人ほどの職人さん達が、牛ノ戸の土を求めて移住してきたそうです。
曳田川の流れで堆積した白い土は、今も尽きることなく周囲の田んぼから採掘されています。その土は良く焼き締まるので、作るのが難しいとされる「酢どっくり」を量産する事ができました。大量の酢どっくりは1日に100本作っても追いつかないほど需要があり、広範囲に渡り流通していました。それは北海道でも発見されているほどです。
昭和になり工業製品の普及により牛ノ戸焼の需要が下火になった頃、現れたのが吉田璋也でした。吉田は、当時まだ30代だった牛ノ戸焼窯の当主、四代目・小林秀晴氏を指導し、「新作民藝」というかたちでプロデュースしていきました。その新作民藝の代表作が染分皿なのです。展示スペースには染分皿の他にも、色んな陶器が展示販売されています。
コーヒーカップも素敵でしたが中井窯で購入したので、他の物を購入しようと思います。
気になるお茶碗がありました。一見白い茶碗ですが、下の方から高台にかけてチャコールグレーみたいな色をしています。持ってみると、とても手に馴染んで安定します。軽すぎず重すぎず丁度良いです。この茶碗でご飯を食べたらいいな♪ と思い、購入しました。他にもそば猪口を2つ購入しました。
工房の窓際にあるショーケースには、古作も展示されていました。民藝館で展示されているものと同等、いや、それ以上かもしれない物がゴロゴロ置かれています!
こんなに貴重な古作が見られるとは思わなかったのでビックリしました。とても美しいものばかりでした。
制作中のお皿も見る事が出来ます。沢山のお皿やカップが並べられていました。
これは染分皿の制作途中ですね、貴重なところを見た気がします。
お会計をして品物を包んでくれた部屋には、写真も展示されていました。写真の下に『牛ノ戸焼第一回窯出し 左より柳宗悦、小林秀晴、吉田璋也 昭和6年5月11日』と書かれていました。民藝のレジェンド達が写っていたので思わず、口に出して「これは、昭和6年、第一回窯出し⁉ 柳宗悦と吉田璋也と小林さんですね!」と確認してしまいました^ ^
「それは四代目の秀晴です。僕のひいおじいちゃんです。僕で七代目なんです。」と、お兄さんは新聞紙で茶碗を包みながら冷静に答えてくれました。そう、対応してくださったのは七代目の小林遼司さんだったのです。マスク越しでしたが、写真に写る若者とお兄さんの顔が似ていました。
それから、写真に写っている大きな登り窯は長年使っていなかった為、遼司さんが学生の頃には壊したことを教えてくれました。昔は瓶などの大物が生活の中でも使われていましたが、今は小さなものに移り変わってきているので、もう大きな窯は必要なくなったそうです。少し寂しい気もしますが、管理や維持がものすごく大変なのだと感じました。
もう一枚写真がありました。いちばん右に写っている、二の腕の逞しいお兄さんが牛ノ戸焼窯四代目・小林秀晴さん。その左が吉田璋也。吉田の左に立っているのが民藝運動の父と呼ばれる思想家の柳宗悦。左端にしゃがんでいる眼鏡の男性は、民藝運動の主要メンバーで陶工の河井寛次郎ではないでしょうか。(河井寛次郎については確認が取れなかったので、間違っていたらスミマセン…)
写真に写っている場所はこの工房ですよとも教えてくれました。なんと! レジェンド達が立った場所に時を経て私も立っているなんて…何だか不思議な気持ちです。タムスリップして当時の様子を覗いてみたいです。
対応してくれた遼司さんのお父様である6代目・小林孝男さんは福島の出身だそうで、奥様との結婚を機に牛ノ戸焼の職人になられたそうです。訪問した時にはお会いできなくて残念でした。お茶碗やそば猪口を手にした我々は、窯元を後にしました。
因みに、2019年にFM TOTTORIで「鳥取の民藝と吉田璋也~これまでとこれから~」という特別番組が放送されました。その動画がyoutubeにアップされています。
第一部は「鳥取の民藝のこれまで」をテーマに、鳥取民藝美術館館長の吉田章二さん(吉田璋也氏のお孫さんです。)と常務理事の木谷清人さんが鳥取の民藝について分かりやすく教えてくれます。
第二部では「鳥取の民藝の今」をテーマに、延興寺窯の山下清志さん、牛ノ戸焼窯の小林孝男さん、山根窯の石原幸二さん、因州中井窯の坂本章さんという現役の鳥取民藝を代表する窯元の当主が集まる貴重な会となっています。
第三部は鳥取の民藝のこれからを担う若者たちにフォーカスしています。牛ノ戸焼の小林遼司さん、延興寺窯の山下裕代さん、因州中井窯の坂本宗之さんの後継者としての生の声を聴くことができます。
この動画を見て知りましたが、因州中井窯の長椅子で出会った女の子のお父様は後継者の坂本宗之さんでした。彼らがどんな経緯で継ぐにいたったかや、今どんなものを作っているのかが知れる面白い内容でした。こんなコアな内容がラジオで聞けるなんて鳥取ってスゴイなと思いました。興味があればぜひ見てみて下さいませ。
次は、用瀬(もちがせ)にある「流しびなの館」へ移動します! 記事が長くなってしまったので、ここで一度区切ろうと思います。続きはまた次回。
参考文献:安西水丸著『鳥取が好きだ。(水丸の鳥取民芸案内)』
参考URL:たくみ工芸店ブログ 牛ノ戸焼